昭和41年04月21日 朝の御理解



 信心するものは何事にも真心になれよと、信心させて頂く者は何事にも真心にならなければと教えで下さる。何事にも真心、この事には真心になるけれども、この事は真心にならなくてもよいと云う様な事では、本当の事じゃない。矢張り真心が血になり肉にならせて頂くと云う事でないと、神様に全面的に通いもしなければ、又、本当のおかげにもなってこないと思うのです。
 なら、例えていうなら、手紙を出すようなもの、内容は自分の思う事を充分に書いた、上書きのその封筒にも宛て名も書いとる。それでもそこに、例えば切手なら切手が貼ってなかったら、それはまあ、着きは着きましょうね、向こうに着きましょうけれども、相手に対してそう大変な御無礼な事になる。相手が切手料を払いなさらなければならないような事になる。
ですから、ならというて、切手を貼れば必ず先方に着くので御座いますけれども、例えば、相手の何々様とこう書くのをね、例えばなら、原紋太さんに、それなら原紋太様と書かないけんのに、原紋太なんてな事であっては、もう失礼な事になるでしょうね。もう、名前だけ書いときゃ、所は書いとかんでよかと云う事もいかんのですよね。矢張り、所番地もちゃんと書かして貰い、そして宛て名も何々様宛と、そうてひっくり返した所には、自分の住所・氏名書かせて頂いて。
 しかもそれには、きちっとした、それに対するところの切手が貼られ、あるいは、又返信でも求める時には、中にはその切手位は同封させて頂くと云う事が、当たり前の事ね。そこのどれか欠げても、少う着いても失礼なと云う事になったりね。書くのは書いてもそれが相手の住所が書いてなかったとするならば、それが又、元にこちらに戻って来ると言った様にですね、神様に対しまつってからの、例えば願い事と云う様なものでもね、私は、そう云うところが信心する者は、何事にも真心にならなければと云う事ではなかろうかと思うのですね。
 ですから、その難しい事じゃないのです。手紙を出すようなもんです。果して住所は書いておるだろうかと、果して、相手の敬称は忘れてないだろうかと。こちらの、名前は書いておるだろうかと、内容に申し上げる事にね、ちゃんとその、自分の意を充分相手に伝える様に行き届いた内容になっておるだろうかと言ううことを、確かめてみなければならない。それだけの事、信心する者は何事にも真心になれよと。
 信心する者は何事にも真心になれよというのは、そう言う風な事ではないだろうか。ですから、矢張りその手紙を一つ出すに致しましても、そこんところを一通り覚えさえすればいい訳なのです。その様に信心も同じ事、信心が一通り身に付いてしまえば、そこんとこは、言わば当たり前の事として、それがなされて行くので御座いますけれども、それが中々、その何事にも真心にならない為に、お粗末御無礼になって言わば、おかげが受けられないと言った様な結果にまでなる。
 そこんところを、神様がああではない、そうでもないじゃないかと、ここは、こうしなければいけんのじゃないのかと言うて、まあ、色々御注意も下さりゃ、おかげも下さる訳なんですよね。そう云う様な、あり方になって来ないと、楽しい事になって来ないと信心生活が、これは年に二回、ま、ここの一つの恒例の様なになっておるんですけれども、御大祭を終わらせて頂きますと、その二十日が菊栄会で御座います。まあ菊栄会と言や椛目でも、まあちょっとまあいうなら。
 名の通ったごたる人達の、いうなら集いである年配的にも、まあ、信心の程度もいうなら、こうまあ、一つの何ちゅ、権威を持った会なんですね。何か本当に一人一人の信心を見ましても、まあ、椛目では、ま、良い信心を頂いておられる方達なんです。ですから、皆んながその、まあ、菊栄会に入りたいと言った様に、皆んなが憧れを持っておるという位です。けれども、まあ、何と申しますかね、ひとつの菊栄会に入るには、こういう別にたいして、システムがあるというのではないのですけれども。
 何とはなしに神様のお許しが頂かなければ、寄り付き難いと言った様な、気品をもった会なんです。まあいうなら自分達でそれを自認しておられます様に、まあ昔の兵隊でいうならま、近衛兵の様なま私の本当の意味でのいよいよん時には、あのま極端にいうなら命でも投げ出してからそれでもあの、椛目の信心を守り抜かせて頂こう、育てさせて頂こう又私共も育って行く、と云う様な願いの人達のまあ、いうなら集いなのです。
 ですから、大祭、これは私だけの事ではないですけれども、中心で私の慰労を兼ねて、ま、最近では一泊位でこの。近所の色々なまあいうなら温泉にま入りましたり、色んな物を窯元巡りを致しましたり、言った様な事がま年に二回づつなされる訳なんです、ですからそれには相当の経費がやっぱり入る訳なんです、銘々が今度もそれもあの、今御造営の事に付いての色々の参考になる所が別府にあるというので、私は別府は始めてで御座いましたから。別府に丁度二十日の一時過ぎ頃からでした。 
 皆さんここで勢揃い致しましてから、あの別府に向かいました。まあ大変色々な意味でおかげを頂いてまいりました。今度も別に宿なんかでも指定して御座いませんでしたけれども、結局行き着きました所は神、神山の宿神のえん神の神様の神と平和の和という宿のお店で御座いました。天皇陛下の御親戚に当たるという、ま由緒あるその旅館でした。前から天皇陛下がお見えられた時に、そこにお泊まりになるという所で。
 その為にわざわざ御建築があって、もう見事な所がその後がその山をバックに出来ております為に、警戒にまあ不充分だというので、そのお泊まりにならなかったそうですけれども、天皇の居間皇后陛下それから侍女の方のお泊まりになる部屋というのが、あのその出来ておる。そりゃもう従業員の方達も素晴らしいが温泉もそりゃ素晴らしい。私は別府という所は、何かこう不潔な感じのする温泉町の様に思うておった所が。
、とても、とても私のイメ-ジとは全然違った、ああ、ほんとに、まあ、始から最後まで行き届いた立派な所である。それは又色んな所がありましょうけれども、又行った所が良かったからでしょ。まあ、そう云う様な所でもう、実に神ながらに何から何まで、おかげで、それこそまあ。連中が連中ですから手を取り足を取らんばかりにして、まあ行き届いた御用もさして貰うて。
 昨日久留米に着きましたのが九時半位だったでしょうか。それからあちらで夕食を致しましてこちらに、十時ちょっと過ぎ位に帰って参りました。もう本当に最後の最後まで行き届いた事で御在ました。所がです、私、帰りましてからここでお茶でも上げて皆んなが帰るいうので御座いますけれども、そん時に私は最後に皆さんに申しました事です。もう、皆さんがね、例えばこうやって、私の為に成程、手を取り足を取らんばかりに、まあ、奉仕サ-ビスされました。
 もう、本当に私も結構なおかげを頂いたんですけれども。私は、折角それだけの事をされるなら、される程にです。内容が立派でなからなければいけませんと私はね、折角これだけのほんとに、皆さんがそれこそ、忙しい人ばっかりね、同時に沢山のお金を使うてからの事ですから、ま、暇を費やしました、時間をかけましたと。だからそれで済んだというのではない。
 本当の事をいうたら私は、別に貴方方に手取り足取りして貰わんでもいい。実をいうたら私は、わざわざ温泉に例えば連れて行って貰わんでもいい。けれども皆さんの一生懸命のその思いというものをです、受けさして頂かにゃ今後。とてもまあいうならば、あんた達の信心が立派という訳ではないけれども。何とはなしに椛目では何か一人一人の上に神様の願いというものが掛けられておる。
 白羽の矢が立っておると言った様な感じがするから、ここん所をひとつ、ようく皆んなが腹に入れとかないけん。今度の事を一つ反省してみてこれで良かっただろうかと云う事を思うてみなさい。例えて申しますとね、行きがけ山並みに入るちょっと手前頃に、二台の車に分乗してまいりましたが。一台がパンクを致しました。それからもうやがて、別府に着くというちょっと寸前にあの、オイルの入るタンクが漏る様になる。
 それで私の車だけが別府に入って、旅館に着かせて頂いて、それから又、一台の車が引っ張りに行かないかん。も、その為にあちらで大体もう早く着いていいのがよかったのが、もう九時位にもなりましたでしょうか。皆さんが揃いましたのがと云う様な、まあ、いうならば、例えば私が行きよってから、こう云う様な事がある筈がないよと私が言う、今日は先生のお供じゃから間違いのないごとと云う様な事ではいかんのじゃ。
 もういけんのだ。こりゃ、私達の方が間違うとるという位なです、例えて言うならば、私を皆さんが招待される。それで私にひもじい思いをさせなければならなかったり。私に不便な思いをさせたりするのですから、こんな失礼な御無礼な事がある何かいこりゃ、私共の不行き届きとしてです、信心の内容が言わば、見かけよかごとあるばってん、内容がなっとらん証拠じゃ。
 その証拠にあんたとこの菊栄会の連中の所の家内がみんな、あんた達の信心について来まいがと、なら一人だって椛目にお参りする事を反対すると云う様な、家内はおりません。金光様の信心を、いやという信心をしないという者もおりません。矢張り信心もしておる。けれども信心が足ろうとらん。その点椛目の総代はまあ、総代そのものの、信心はともかくとして家内達の信心の方がしっかりしとる。
 さあ今日は椛目のなんじゃないですかと、もう総代会の男の方達の男の総代達なら、まあ家内の信心がちゃんとしとるから。どこでどういう御用を頂きよっても何とはなしに、家内の後御祈念があっておるからいうものがあるけれども、あんた達の場合はそれを感じる事は出来ない。例えば、○○さんの家に私が招待されて行った。もう主人はもう、それこそ、も、大変なもてなしをするけれども、家内はブ-、としてるち、いうごたる風な感じがするち。
 私がそれでは招待したその人に対して、御無礼じゃないかと私はかんまん。けれども、それではあんた方がおかげを受けられんのぞ。私はあちらに着かせて、昨日の朝です朝の五時にきちっと起床致しましてから、御祈念を致します必ず。何時でも御祈念が終わらせて頂きますと、又八時か九時しかその朝食が運ばれませんから、それまでお風呂に入る者もありゃ休む者もあると言う様な事なんですよ。私は一寸休ませて頂いて私の部屋に大和さんと、高橋さんがこう付いておって下さって私共三人休ませて貰った。
 私もお夢を頂くならやまとさんも、お夢を頂いてその私のお夢というのが面白い。面白いというか、ちょっと気味の悪い様なお夢だった。私が起きて丁度あすこで女中さんが見えてから、夕べはここで何んにもなかったでしょうか、何にもなかったですよ、そうですか、あのここではね、その以前誰かが自殺をしなさった部屋、居間で御在ます。ですからこの部屋は言わば幽霊の出るというてから、皆んなが泊まる部屋じゃないのですけれども、実はそこんところを。
黙って先生方に泊まって頂いたんですが、と女中さんが言う。いや何にもなかったと、けれども、これからはもう大丈夫ですよ。私がここに泊まらせて頂いた以上は、後は何にもないですよ。後はもう客間にお使いになってもいいですよ、というところで目が覚めた。そりゃ、五時から八時ちょっと前だったね。大和さんは、又こんな夢を頂いた。菊栄会の八名の方達があの七名でした。の方達が全部親先生を中心にして、まあ、どこか行っておると云う様なお夢であった。
 その一人一人がですね、あのガスボンベですね、ガスボンベを頂いておる。それがもう大きい、小まい、親先生のはもう二間以上もあると言った様な大きなガスボンベを、これが親先生のこれが菊栄会の誰の。これが誰の、これが誰の言う風にまあ印が入れてある。そしてこの中のガスはこの空気中から、あの吸収するというものだとそれを中野実という人が、まあその中にはそのガスを入れてあげられると云う事になっておると云う様なお夢であったと。だから大和さんあんた頂いた通りの事をまあみんなにもここであの、披露しときなさい。発表しときない。
 私はお互いがです、矢張り一つのガズボンベとしての受けものというものを神様に頂いておる様なもの、私はあんた方が一人一人に神様の白羽の矢がたっておるんだと云う事は、そういう意味の事、ですからこのガスボンベがガスがあればですね、御飯も炊く事も出来れば、おさゆ作る事が出来る言わば、ままにもなりゃぁね、副食も出来る一切の事がままになるおかげが受けられるんだと。
 このガスボンベ一つあればそれにはその空気中からね。言わば天地の親神様のお働きが頂けれる、その中野実というのが私は、まあ色々あると中野実というのは、中が実ってある人だという意味だろうと私は思うんです。中身が出来ておる人という意味だろうと思う。いうならまあ、金光様と云う事になるだろうと、それにはお互いが、そのガスボンベの自覚というものが、なからなければ出来なけねばならんのである。
 出来とらん証拠にままになっとらんじゃいかと、本当の意味の事ではね、ここんところを一つまあ頂いて、行かなければいけない。まあ、私、皆さんが帰った後に話した事で御座います。子供達にほんに信心ちゃなあ、本当に信心ちゃ、ああいう意味でばからしいごたるこっちゃ、ほんに沢山な暇と沢山の金を使うてしてから、一番最後におごられたごたる風で、本当にどうも不行き届きで済みませんでしたと、会長始め皆んなでお詫びして帰らなければならない。
 けれども、例えば、私が申します様な折角内容も素晴らしいね、上書きも書いた切手も貼ったと、けれども様の一字を忘れとったという感じがするじゃないかと云う事です。これではあんた方の信心が行き届いた、それではあんた方の所の家族、子供いや家内達に至るまでが、成程というて付いて来る様な信心にはならんのだと、ここんところをお互いが一つ本当に行き届いた信心さして貰わなければならんと云う事はですね、私は申しました訳でございますね。
 信心は何事にも真心になれよと。しかも何事にも真心になれと云う事はです、本当にその気にならして頂いてですね、私共の信心が、血に肉にならして貰うと何事にも真心にならして頂くと云う事がさ程に難しい事ではないという。難しさを感じると云う事は、それだけまだ、信心が自分のものになっいない証拠だと、いうなら椛目の代表選手の様な方達ですら、それであるんだ。
 であるから、いやこれはもう、菊栄会ではなくて他の会がそう云うことを思いたって、そう云うことをそうしよるだったら本当に今日はご苦労さんでしたと も、ほんとに私もま、大変極楽を致しましたと、本当に有り難う御座いましたと、まあ私も言うておったかも知れませんよ。あれは菊栄会だからこそ、最後に私は締めくくりに怒られる様な言わば、おかげを頂いとった、ひょっとすりゃ皆さんであったらそうじゃなかったかも、私は知れんと思うですね。
 ああ、ほんとおかげでもう面白う御座いました。もうおかげで本当に楽しましたと言うて、ま、お礼どん言われるごたることじゃだから、でけんと云うことですよ、本当言うたらね。ま、自分どんが物見ゆさんに先生もそのまあ、担がれておる様なことでは出来ん。そりゃその点です、も、菊栄会の方の場合なんかは、もう、もう、本当にそりゃもう、行き届いたことです。
 自分の楽しょうそれじゃないです。本当に先生に喜こんで貰おうと、も、せめて一日だけでも楽して貰おうと言う様な一生懸命な気持ちてだけれどもです、それと云う様な事ではない。例えばその自動車のちょっとした事故と言った様な事でもですね、私が言うのは私が行っておってそう云う事がある筈がないじゃないかと。あんた方銘々がです。どこか私共の行き届かなかった所がありゃしなかったかと、反省さして貰うてそこんところうやれやれ帰らして頂いたじゃなくてから。
 私は本気でお詫びする気持ちにならなければいけんのだと言う風に、まあ、私申しましたけれども、菊栄会の方達だったからこそ、そう言う風な、ま、おかげを頂いただとも思うのですけれども、信心とはそう云う様な物だと。金をかけたから、時間をかけたからそれで良いというのじゃないね。総代、幹部始め同じ事。信心というのはどこまでもです、内容の言うならば発露が形になって現れるのですから、行き届いた信心さして貰うてね、丁度神様にお手紙を差し上げる様なもの。
 それには勿論、切手は勿論の事ね、住所氏名は勿論自分の住所氏名もちゃんと書かして貰うて、それが裏表にならん様に、それが言わばその敬称を忘れる事のない様に、しかもそんな申し上げておる内容がですね。こちらの思いが逐一向こうの相手に通じる様な内容を書かせて頂いとかなければならないと云う事と同時に、どこか一つ欠けておってもそれは相手に着かなかったり、又は着いても失礼にあたったりと云う事にならん様な心配りというものが大事である その心配りこそが何事にも真心になる事ではなかろうかと言う風に私は思いますですね。
   どうぞ。